御由緒

   神功皇后が祭りを行ったと伝わる皇后石
   神功皇后が祭りを行ったと伝わる皇后石

 

 

 鎮座の年代

 

欽明天皇 御宇六年(皇紀1205年 西暦545年) 九月二十一日

 

 鎮座の縁起

中津川(山国川)の辺に玉手翁(たまてのおきな)という者が住んでいた。神にも等しい美しい心を持った人格者であったが、欽明天皇六年九月二十一日吹出の高浜を散歩していたところ、美しい白雲が西の方より飛来し明月の如く光り輝く女神が乗っておられた。翁はすぐに神である事を察し畏れ拝んだ。すると次のような神託があった。

「吾は息長帯姫なり。昔、三韓征伐のおり軍卒集まり難しにより諸国を歴視し此の所に来りて海辺の石(後、皇后石と呼ぶようになった)の上にて諸国の神々を祭る。よりて軍卒多く集まり船をも調達、険浪を渡り三韓を伐つ。しかるに後世これを知る者なし。今よりこの良き地に住みて永遠に国家国民を守護せんとす。汝此の所に社を建て吾を祭れ」

翁は平伏して再拝、早速社殿を造営すべき土地をさがしたが、自分の支配するこの土地が神様の選ばれた所だけあって、人々も心豊かで海陸の幸にも富んでいる事に大そう喜んで、吹出の高浜の島の最も荘厳な所を選び、社殿を建て、息長大神宮と称してお祭りした。  

 

 細男舞・神相撲の縁起

元正天皇 御宇、養老三年(皇紀1379年、西暦719年)大隅、日向の隼人族が皇命に従わず七城を築いて叛乱を起こした。その時、官軍・宇佐の神軍とともに息長大神宮も神人・社家・村里次官を引きつれて行き七城を囲んだ。神力により五城は落とすことができたが、二城はどうしても伐つことができない。豊前の国司は息長大神宮に祈らせ神告を得た。神告のとおり美女・美童の形を表す御神像を造り、戦場において伎楽を奏し、寇賊の心をとらかし、疲れていた官軍の士気を奮い起こし、ついに二城の敵を誅つことできた。

 

聖武天皇 御宇、天平十六年(皇紀1404年、西暦744年)隼人の霊を慰めるため宇佐神宮が中心となって豊の国の大放生会を執行。国司が息長大神宮の神官に言うには「隼人降伏のとき、戦場に伎楽を奏す。今また古を表す木造を彫りて……」御神像を広津崎より船に乗せ和間海上に到り放生会に参加、細男の伎楽を奏した。すこぶる古の形を表すものであった故その後古表大明神と称し、別宮を建てて奉祀した。以来、宇佐放生会の際には出御して参加していたが八幡古表宮独自でも行うようになり今日に到ったのである。

 

 神幸祭の縁起(御神幸・各区秋祭の縁起)

称徳天皇の神護景雲三年(西暦769年)夏5月、国中に昆虫の災いあり、息長大神宮・古表大明神に祈る。神輿二殿広津山に行幸、御旅所で大祓の神楽を行う。併せて、七種の押草を田毎の溝口に立て、三日三夜祈る。この後本宮に還御す。程なくして昆虫消除す。

この年の秋、豊作となり幸子村より冬の祭(御礼、感謝の祭)を行う。

息長大神宮の神輿は高浜より、古表大明神の神輿は広津崎より出御。御旅所にて一泊す。終夜、庭火で神楽を奏し、饗宴を設け、翌日還御す。広津村、小犬丸村、小祝村と続く。これ、祭礼行幸の始めなり。